家プロジェクト「南寺」を想う

8月6日に日本からカナダに帰国して5日目の深夜にこれを書いている。

自分自身の時差ボケも解けないのだが、それ以上にもうすぐ2歳になる娘の時差ボケがひどいのだ。カナダと日本では昼夜が真逆であり、目がギンギンギラギラして眠れない夜と、疲れ果てて眠たくてしょうがない昼が続く。大人でも克服するのに大変なこの時差ボケ、2歳未満児なら未体験ゾーンで、そら大変でしょう。夜はしっかり寝て、昼はしっかり活動する、そんな当たり前のことができないもどかしさに、泣く事しかできないわが子が可哀想になってくるものの、「早よっ寝れっ!」と大人気なく思ってしまう。

街灯の明かりがかすかに差し込む暗がりの夜の部屋で、時差ボケの娘をあやしていると、ふと、直島の家プロジェクト「南寺(みなみでら)の鮮烈なアート体験を思い出してしまった。

直島は、いまや現代アートの聖地として、日本国内よりも世界に名高い島である。その島の東側の本村地区に「家プロジェクト」という、空き家を改修し、その中に現代アートを常設展示するものが目玉となっている。直島をアートの島に仕立てたベネッセという会社で、プロジェクト立ち上げに参加した秋元雄史さんの著書によれば、

「家プロジェクト」は、古民家の改修、アート化が直島の歴史を掘り起こす役割を担う(直島誕生2018)

という厳密な定義がある。この定義にそって、家プロジェクトの一軒目「角屋」がオープンしたが、二軒目のこの「南寺」は「古民家の改修」には沿っていない。逆に古家を取り壊して、その更地に安藤忠雄が設計した全くの新築物件が設けられた。しかし島の歴史を掘り起こすと、この地はもともと地蔵寺という寺があり、島民には「みなみでら」という通り名で親しまれていたという。そういう土地の記憶はしっかりと踏襲されている。では、なぜ新築したかといえば、ジェームズ・タレルの「Backside of the moon」というアートを収納するためだ。このアートの特性をタレル自身はこう説明している。

「真っ暗闇な建物内で 、目が慣れてくるにつれて少しずつ正面の壁にスクリ ーンのような空間が見えてくるこの作品」(直島誕生2018)

僕自身、今回の家族みんなでの日本滞在中、直島のこの南寺を体験してきた。整理券を事前にもらい、予定の時間に限られた人数だけ入館できる。説明員の方の指導に従い、手で壁を触りながら入る。なぜなら中は自分の手足も見えないほど本当に真っ暗闇だからだ。壁伝いに中を探って着席し、真っ暗闇をひたすら直視する。3分、5分たつと、突如として光のスクリーンが飛び込んでくる。いったん光を感じると、あたり一帯は明るく感じ、もう暗闇は存在しなくなる。。。そんなアート体験である!

説明員の方の話によると、入館した最初から、光は差し込んでいたそうである。それは明るい場所から入ってきた目には見えないほどの光量だそうだ。館内では音が出るもの、光を発するもの、スマートフォン、スマートウォッチのたぐいは、一切電源をオフにしなければならない。そうやって人為的に真っ暗闇の世界を作り守りながら、真っ暗闇を直視し、がまん強く何かを待ち続ける。そうしてついに見えてきた光のスクリーンは、なんとも言えない感動のアート体験である。先述の秋元雄史氏は、ジェームズ・タレルのことをこう評する。

タレルは光の作家であり、それを科学的に探求する作品を多く制作しているが、その背景には宗教的な光の象徴性が垣間見える。それもそのはず、タレルは本人も含めて家族がクエーカー教徒なのだ。クエーカー教徒は偶像を持たない。内なる光によって信仰を深める。その思想はタレルの制作にも影響を与えている(直島誕生2018)

観客に光の体験をさせるタレルの作品は、圧倒的な暗闇があってはじめて成立する。またその光は観客が入館してからすでに発光していたのだ。この「暗闇の中にもともと光が存在していて、その暗闇を直視しつづけると光に気がつく体験」は、俗世間の中に出世間(聖なるもの、宗教的なるもの)が存在するメタファーだ、と強く共感してしまった。そしてこのメタファーは、仏法の、なかんずく法華経の蓮の華の譬えを即座に思わせる。

仏法の世界では、「蓮の華」はとても重要な象徴性をもつ。法華経の正式名称は「妙法蓮華経」といい、まさに蓮の華の存在自体が仏の教えの中核であるとの題目である。この法華経の第15章に、地涌の菩薩(地から湧き出てくる沢山の仏弟子)は、

不染世間法 如蓮華在水
(世間の法に染まらざること  
 蓮華の水に在るが如し)

であるとの文句がある。意味は、仏法を実践するもの、総じて我々人間の命には、世間や社会のネガティブな暗闇の部分に染まらず負けずに、自分の可能性や創造性を発揮できることがある。それはまるで蓮の華が泥水の中に咲く姿と全く同じである、と解釈できると思う。世間の闇、そして自分の心にも闇はしっかりと存在する。それに負ける日々もあれば、それに打ち勝つ日もある。大事なのは、自分の中に心の闇もあれば、蓮の華のように泥水から花を咲かせる、その種もすでにある、とのメッセージであろう。

僕が南寺のジェームズ・タレルのアート体験をして、真っ先にこの法華経の蓮華の句を思い出したのだ。光は必ずある、この暗闇に!
法華経の教説が面白いのは、ネガティヴなものをネガティヴなものだといったん断じながらも、それを捨てずにポジティブなものを手に入れる方便として使い切るところだ。それはシンプルに考えればわかる。光は暗闇がなければ存在しない。夜があってはじめて昼がある。男がいて女がいる。CO2を吐く人間がいてO2を吐く草木がある。自然界ではあらゆるものが相即性をもつ。つまり相反しているものは補完しあっている。ジェームズ・タレルの「backside of the moon」も同じだ。地球側からすれば、月夜の見える反対側は真っ昼間で、月影がかすかに見える日中の逆側は真夜中である。月の両サイドには昼と夜が相即している。闇と光とが共にいるのである。
タレルのこの作品のように、真っ暗闇の体験、そしてその中で光に気づく体験は、驚きの体験であると同時に当たり前の体験である。しかし、当たり前に物事を享受してしまっている現代人の我々には、この当たり前の体験に驚愕する。僕の2歳未満の娘が時差ボケに困惑して泣き叫んでしまうように。

この自然界のすべての出来事は、相対的か、相即的なのかもしれず、絶対的なものはありえないのかもしれない。あえていうなら、この相対的で相即的であることが絶対(仏法用語で「絶待」)なのかもしれない。

時差に泣く
夏夜の室に
まちあかり


(写真は南寺の敷地にある名もなき御堂と息子娘たち。過去と現在と未来が混在しているかのような錯覚を感じた。)

参照:『直島誕生』秋元雄史著

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ⑤鬼が笑う

前回は「受け容れる」ことで「智慧」を発揮する

「絵姿女房」の話をしました。
前回を参照➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ④絵姿女房

今回は「悪との対峙の仕方」「智慧」について

話したいと思います。

日本の昔話には、しばしば「鬼」が現れます。

この「鬼」を英訳にすれば、

「demon」「evil」「 devil」「 ogre」などでしょうか。

いずれも「悪魔、人喰い鬼」みたいな語感でしょう。

これらの概念は、キリスト教世界では、神に対峙する絶対悪の存在です。

絶対悪である悪魔は、神によって滅ぼされる存在です。

神は、悪と没交渉です。交渉しないのです。

ところが日本の昔話に出てくる「鬼」は、

かならずしも絶対悪の存在ではないのです。

「鬼」はしばしば人間社会にやってきて、

村を荒らし、町人をさらったりして、

人々に恐怖のどん底を味あわせたりします。

と思えば一方で、

「おにのパンツ」と子供に親しまれる存在だったりします。

キリスト教世界では、ありえない待遇でしょう。

ここに「鬼が笑う」という昔話があります。

登場人物は、娘と老いた母、尼、そして恐ろしい鬼です。

この話には、なぜか男たちが一切出てきません。

さあ、女たちだけで、鬼とどのように渡り合っていくのでしょうか。

あるところに娘と年老いた母が住んでいました。

ある日、鬼たちが村を荒らしに来て、

この娘をさらっていきました。

年老いた母は、ほとほと困り果てたところに、

尼さんがあらわれて、知恵を授けてくれます。

「鬼ヶ島にいって、鬼どもに酒を振る舞え。

鬼どもが酔った隙に、娘を連れて島を離れるのじゃ」

さっそく母と尼は、たくさんの酒樽を船にのせて、

川向こうの鬼ヶ島に渡りました。

尼が船に残り、母は単身、鬼のいるところへ。

島で鬼たちに酒を振る舞い、

予定通り鬼たちが酔いつぶれた隙に、

娘を探し出し、娘とともに、尼が待つ船に乗り込みます。

そのとき、鬼たちが酔いから目覚め、娘がいないことをさとり、

老婆の策略だったことに気づき、大激怒する鬼たち。

すぐに島から出ていってしまった船を見つけ出し、

川岸に降りてきた。

そこで鬼たちが口を開けるといっせいに、

川の水をゴクゴクと飲みだした。

すると、島から離れたはずの女たちが乗った船が、

みるみる島の方へ引き戻されるではありませんか!

娘と母はなすすべもなく、狼狽しているところへ尼が、

「何をしておる!今すぐ女の大事なところを

鬼どもに見せびらかすのじゃ!」

と、女3人、船の上に立ち、着物の裾をまくりあげ、

女の大事なところを鬼たちに見せました。

それを見た鬼たちは、大笑いし、笑い転げて、

それ以上、水を吸うこともできず、

女たちの船は無事、

鬼ヶ島から逃げうせることができましたとさ。

この話では、悪行の限りを尽くした鬼たちが

全く成敗されません。

むしろ、鬼たちは鬼ヶ島に存在し続けているし、

娘と年老いた母は村に戻り、すべてが元通りです。

これが男たちだったら、鬼を殺す算段をするでしょう。

ところがこの女たちは、「笑い」という智慧を発揮し、

窮地を逃れるのみならず、争いすら回避しているのです。

力と力は、いずれ争いをもたらしますが、

力に対する「笑い」は、脱力を生みます。

鬼 vs 男 ( 暴力 vs 暴力 )=争い
鬼 vs 女 ( 暴力 vs 笑い )=脱力

「鬼が笑う(鬼を笑わせる)」ことで、

鬼が村を荒らしたり、娘をさらったりしたことを

「無かったことにしている」のです。

現代ドラマにおいても、復讐劇が多いなか、

この「鬼が笑う」に発揮される

「無かったことにする」智慧は、

目を見張るものがあるのではないでしょうか。


(つづく)

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ④絵姿女房ー受容する智慧

日本の昔話では、

「受け容れる」ことの智慧を教えてくれることを

前回お話ししました。
前回の記事を参照➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ③花咲か爺

ここをちょっと深掘りしてみましょう。

例えば、「絵姿女房」。

自分の女房が可愛くて可愛くてたまらない男は、

妻の顔見たさに畑仕事にいこうとしません。

その女房がこう言います。

「では、私の顔を絵に描いて、畑に持っていきなさい」

その通りに女房の絵を描いて畑に持っていく男。

ところが風が吹いて女房の絵が飛んでいき、

その土地のお殿様のもとに舞いこむ。

その絵を見て一目惚れしたお殿様は、

絵姿の女を探し出して、主人公の男から連れ去っていきます。

悲嘆にくれる男。

連れ去られるとき、女房がこう言います。

「大晦日に、門松売りの格好をしてお城にくるように」

悲しい現実に打ちひしがれながらも、

その現実を受け容れるところから話が急展開。

女房が言いつけた通り、

男は大晦日に門松売りとしてお城にやってきます。

一方お城では、

いつも悲しい顔してニコリともしない女に

やるせないお殿様。

ところが、女の本当の亭主である

門松売りの姿を見た途端、

満面の笑顔を浮かべる女。

嬉しくなったお殿様は、

門松売りと自分の殿様の着物を取り替え、

門松売りとなったお殿様は、

門松売りの真似をしながらいったん城外へでて、

城内へ戻ろうとすると、門番が中へ入れてくれない。

かたやお殿様になった男は、

元の女房とお城で幸せにくらしましたとさ、というもの。

「不思議の世界」への旅立ちはないですが
(とは言っても、当時の庶民にとって、お城暮らしは夢のような暮らしであり、「不思議な世界」と言っても過言ではありません)、

女房と男が権力者の不条理によって、

別離させられるという「現実世界での葛藤」があります。

しかし、お殿様を悪の存在としてではなく、

権力者でありながら、道化師(トリックスター)の役割を演じさせ、

女の笑顔見たさに、門松売りに転落し、権威権力を失います。

女房と男は、別離という辛い悲しい現実を受け容れながら、

結局は、物語の始まり以上の富と幸せを獲得します。

「受け容れる」ことによって「智慧」を発揮し、

現実世界に「調和」がもたらされるのです。

ここには、

善人が悪人との激しい抗争のすえ、悪人を打ち倒し、

善人がすべてを勝ち取る、といった荒々しさがありません。

むしろ権力者の横暴をいったんは受け入れます。

受け容れたところから、主人公が智慧を発揮し、

むりなく権力者を退け、世界が調和して終わる、

という物語です。

ここには

「俺の話を聞け」的な態度もなく、


「善悪を単純化」するのでもなく、

善も悪もないまぜにして、住む世界の調和を尊重する

語りの態度があるのです。

ここに、先人の智慧を見るのです。


次の記事を読む➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ⑤鬼が笑う
(つづく)

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ③花咲か爺

前回は「男性的/権力型ストーリー」と「女性的/共感型ストーリー」の話をしました
記事を参照➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ②権力型か共感型か

ここではまず、「女性的な/共感型ストーリー」の特徴を列挙してみましょう。

現実世界に葛藤がある
不思議の世界にいく
win-winストーリーである

勧善懲悪型の「男性的/権力型ストーリー」は、善と悪を分けるので

Win-Lose型のストーリーです。

それに対して「女性的な/共感型ストーリー」は、

最終的にみなが調和するWin-Win型のストーリーです。

主人公は、自分の現実に悩み葛藤しています。

すると「不思議の世界」へまぎれ込み、

そこでの試練を乗り越え、葛藤を克服し、

現実世界に戻ります。

すると周りの現実世界が主人公に理解を示し、

世界に調和がもたらされ、ハッピーエンドとなります。

例を出しましょう。

日本の昔話は、いつもこう始まります。

「むかしむかし、あるところに、
おじいさんと おばあさんが いました。」

話の主人公がおじいさん、おばあさんであることが多い。

老人は「智慧」の象徴です。

これが若者であるならば、「勇気」や「自己犠牲」など、

男性的で、荒々しいものが象徴されるでしょう。

ところが日本の昔話は、老人がメインです。

老人はまた「哀しみ」の象徴でもあります。

老いていくことは、若さに比べ、うんと哀しい。

若さに比べて、うんと「死」に近いわけですから。

若者は「死」とはうんと離れたところにいる。

恐いものなどなく、運命にあらがい、

いつも何かと闘っていきます。

運命と戦う、悪と戦う、ライバルと競争する、

何かと戦う、何かに抗う、のが若者の使命です。

しかし、死と隣り合わせの老人は、

運命に抗わず、身に起きたことを受け入れようとします。

それが「科学的」ではなく、「不可思議」なことであっても、

受け入れようとします。

運命(不可思議)を受け入れようとするため、

ドラマがおきるのです。

例えば「花咲か爺さん」

拾った子犬が大きくなり、やがておじいさんに話しかけます。

「ここほれ、わんわん」

おじいさんは、犬に話しかけられ、「不思議」に思いながらも

素直に穴を掘ります。

すると大判小判がざっくざく、と出てくるのです。

もし主人公が若者ならば、いきなり話しかけてくる犬を

気持ち悪がって、遠ざけるかもしれません。

現代の若者のように、「科学的でない」ことは排除する態度です。

ところが老人は、秋が冬になり、冬が春になるように、

あまりにも自然に、運命や世の不思議を受け容れようとする。

現実への受容態度が大変高い。

この受容、「受け容れる」態度が、日本の昔話では、

「智慧」と受け取られることが多いようです。

「科学的」かどうかという考えは、

「男性的」な判断基準だと思います。

自然世界には、人智の及ばない「不思議」なことが多いですよね。

しかし人間は「科学的」かどうかという判断基準で、

現実を捨象することが多々ある。

この態度は、

「科学的=善」で「非科学的=悪」

という根本原理が背景にある。

対する日本の昔話では、

自然世界でおこる「不思議」を主人公の老人が受け容れて

幸せになる話が多いのです。


(つづく)
次の記事➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ④絵姿女房ー受容する智慧

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ②権力型か共感型か

前回は、

勧善懲悪型ストーリーは、善と悪を単純化してしまう

という見方を書きました。
こちらを参照➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ①

もうちょっと深掘りしてみましょう。

勧善懲悪型の物語は、善は善、悪は悪と二分化され、

善が悪になったり、悪が善に心変わりすることなど許されません。

勧善懲悪型は、善は善、悪は悪とズバズバ切り裂くことで、

わかりやすいストーリーを提供できます。

ところが我々の現実感覚はどうでしょうか?

完全なる善人などありえませんし、全くの悪人も存在しません。

中国の陰陽思想のように、ひとつの存在には、陰も陽もあり、

混ざり合っているのが現実です。

しかし現実に、勧善懲悪型のように、

物事を二分化して単純化して、

自らのストーリーを話したがる種族がいます。

そうです、われわれ「男性」です。

われわれ「男性」は、例外を捨象して、

物事を分析しやすいように話をしたがります。

物語論に即していえば、

善と悪を二分化させるー男性的ストーリー
善と悪とは二分化できないー女性的ストーリー

という風に「二分化(笑)」できないでしょうか。

男性同士が何かを話すとき、「権力型」の話し方をすると言われています。

AとBを分けて分析結果を話す
俺の話を聞け、という態度

これに対して、

女性同士が話すときは、「共感型」の話し方をすると言われます。

とにかく話を聞いてほしい
相手の判断は求めていない

男性は、その話がAかBかの「判断」を聞きたい
女性は、その話の判断は求めず「共感」してほしい

このように性別でストーリーに対する態度がみられるのではないか。

ところが、昨今、世界はますますグローバル化が進み、

異文化相互理解がよりいっそう求められる時代です。

グローバル化社会の中で、

「俺の話を聞け」的な態度
極端に二分化して単純化されたもの言い

という「男性的な/権力型」アプローチは孤立化するのではないでしょうか。

そうではなく、

相互理解に求められるのは「共感」力でしょう。

話を戻すと、「女性的なストーリー」とは、

善と悪を二分することではなく、
善と悪の葛藤はあるが、最後には「調和」がもたらされる

ストーリーです。

そういった「女性的な/共感型ストーリー」が今ますます必要なのではないか、

というのが僕の考えです。

なぜならグローバル化した地球の上で、

経済的文化的に国境を越え、世界が小さくなり、人々が交流する中で、

違う文化的背景を持つ人間同士が「共感」できる術がますます重要になる」

と思うからです。

僕は前々から「子どもには女性的な/共感型ストーリーを提供すべきだ」

と考えています。

それでは「女性的な/共感型ストーリー」とは、

一体どういうものなのでしょうか?



次の記事を読む➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ③花咲か爺
(つづく)

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ①

息子が5歳にもなると、色々な変化があります。

1番困るのが、親に対する反抗的態度ですが、

ほかにも、どうしていいか、悩むものがあります。

それは、

「勧善懲悪」型の物語を好む

というものです。

いわゆるスーパーヒーローものですね。

なぜ、困るかといえば、3つあります。

暴力的な遊びに夢中になる
善と悪を単純化してしまう
現実社会になじまない

男の子の遊びというものは、女の子のそれとかなり違います。

男の子は、正義が悪に勝つ、というテーマがやっぱり好きで、

銃や剣を使って、暴力的な遊びに夢中になります。

これがなぜ困るかといえば、

カナダの学校では、銃ごっこするのは「御法度」だからです。

ましてやうちの妻も学校の先生なので、

息子が家で銃ごっこするのもいけないことになっています。

妻はもちろん女性なので、男の子がなぜ銃ごっこをしたがるのか

理解できません。

ところが、僕は当然男性なので、よくわかります。

よくわかるどころか、僕が小学生の時は、BBガンが全盛期でしたので、

スーパーナインというライフルや、ウージーというマシンガンなど

みな争って買って、サバイバルゲームに夢中になったものでした。

BBガンはフロンガスを使って弾を飛ばすものでしたが、

環境によくないということがわかり、廃れていきました。

それでも一部の友だちは、エアタンクというものを背中に背負って、

下校時、草陰から下校してくるほかの児童を狙い撃ちしたりしてましたが、

なんのおとがめもない「平和な」時代でした。

そんな時代に少年期を過ごした僕としては、

銃ごっこができない息子がときどき不憫に思います。

しかし、カナダの隣国アメリカは銃社会であり、

銃による悲惨な事件が頻繁しています。

「銃」というものが現実に問題になっている北米において、

子供のときから銃に親しませない、

という教育における政治的判断は、正しいように思います。

では、子ども向けの番組や本はどうかというと、

相変わらず「勧善懲悪」型のヒーローが、銃や剣を使い、

悪人を打ち倒す物語であふれています。

僕は以前から、ヒーローものの欠点は、

悪はぜったい、善にはなれない

ところだと思っています。

勧善懲悪型のヒーローものは、悪は悪、善は善、と二分してしまいます。

そこに悪が反省して善になるチャンスなどありません。

最近「スターウォーズ」がリバイバルされて人気が再燃してますが、

この映画の最大の面白味は、

善い人間でも、油断すればダークサイド(悪)に堕ちる

というメッセージです。

スターウォーズは最近リバイバルされて、

子ども向けマーケットでも大変な人気ですが、

そこにはもともとあった哲学的なところは無視されて、

勧善懲悪型の見せ方に単純化され、

ただのアクション劇として、それこそダークサイドに堕ちています。

次を読む➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ②権力型か共感型か
(つづく)

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日本語クラスの型(18)授業の実際例「かいじゅうたちのいるところ」

さて2017年です。

トロントでは、2週間ほどの冬休みが終わり、

週末の日本語学校も再開です。

1月のテキストはモーリス・センダックの不朽の名作

「かいじゅうたちのいるところ」です。

ここで初めて、英語がオリジナルの翻訳絵本を使います。

幸いにも、日本語作品には「じんぐうてるお訳」があります。

センダックのオリジナル英文は、ページをまたいで文が続いているので、

日本語訳では、接続詞をうまく使ったり、意訳したりして、

オリジナルの世界をうまく日本語世界で展開してあります。

さて、個人的にはとても思い入れの深い作品でして、

「子どもの心の瞬間を捉えた巧みな物語」として、

ユング派の臨床心理学者であった河合隼雄氏が絶賛されてた作品だったので、

河合隼雄ファンの僕にとってもセンダックのこの絵本は、

尊敬の対象でした。

そして嬉しいことに、うちの息子もこの本が大好きなのです。

しかし思い入れが深いが故に、

空振りもひとしおでした。

僕は、クラスで使う語彙カードや、宿題に使用するイラストを

手書きするのですが、

そこに凝りすぎて、思わず時間を割いてしまい、

テキストを読み込んだり、

授業で音読する際の注意点などをあまり考えなかったので、

クラスでの運用は、今ひとつでした。

そして意外にも盲点だったのが、セリフ文の少なさです。

マックス
おかあさん(絵には描かれていない)
かいじゅうたち

という登場人物で物語が展開していきますが、

セリフ文が意外と少ないのです。

ナレーター文が主のため、クラスで音読するときは、

生徒が飽きてしまうのです。

やはりセリフ文が多いほうが、声の使い分けをさせたり、

理解度をはかるときに、誰が言った言葉なのか、

といった質問ができるので、クラス活動はそれなりに忙しくできますが、

ナレーター文が主だと、言語学習用テキストとしては、

生徒に飽きがくる、といった点で、不向きです。

やはり、対話主体のテキストの方が、音読ではドラマ性が生まれます。

また教師が模範音読するときも、

登場人物ごとに大げさに読んでみたりできるので、

クラス内での音読運営を「劇場型」に見せやすくなり、

生徒の飽きを防げます。

センダックのオリジナル英文は、とてもシンプルで、

子どもたちにはまず絵を見せて、

絵で物語が読めるように動きのある描き方がしてあり、

文章は最低限で、より言葉少なく書いているところがあります。

絵本としてはそれで充分です。

ただ言語テキストとしては、足りません。

ここに気が回りませんでした。

物語としては、とても面白いものです。

イタズラしすぎて、おかあさんの逆鱗にふれたマックスは、

ゆうごはん抜きで寝室に放り込まれます。

そこからマックスの想像の世界が膨らみ、

マックスは「かいじゅうたちのいるところ」にたどり着きます。

子どもの想像力をとてもかきたてるもので、

絵本としては、殿堂入り間違いないのですが、

「想像」とか登場人物の「心理」といった抽象的な世界を

第二言語で説明してもらうのは、とても高度な作業です。

やはり自分の好みだけで

言語テキストを選んではならないと教えられました。

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