絵本づくり(06)多神教的ストーリーテンプレートの必要性

前回話した

「勧善懲悪型ストーリー」

は、キリスト教的なメッセージからできたエンタテインメントだと思う。なぜなら善と悪を二分するところが根源だからである。この根源から出た物語を西洋的エンタテインメントだとしたら、その反対には東洋的なエンタテインメントがある。その根源の違いは何かと言えば、一神教か多神教か、だと思う。

神は一つであり、一人であるという考え方と、神はたくさんいる、あまたいるという考え方に、どんな違いを僕たちの生活にもたらすかといえば、

生きる希望を僕たちの外におくか、内に置くか

であろうか。「神」という概念を「この世で一番尊いもの」と訳せば、一神教では「この世で一番尊い」絶対者は神一人であり、多神教ではすべてのものに等しくある生命ということになる。

批判を恐れずに要約すれば、一神教では、生きる希望は神一者のみに委ねられ、多神教では、すべての生きとし生ける者が希望の体現者になれるのである。

また、多神教から生まれる物語は、一神教の物語にない、今のわれわれにとって新鮮な物語をもたらすだろう。

前回、ジブリの宮崎駿監督が創ってきた物語は、そのアイディアの源泉を日本の昔話や民話から得たことを書いたが、例えば、『ナウシカ』は堤中納言物語収録の「虫愛づる姫君」、『トトロ』は笠地蔵、『もののけ姫』は製鉄民の伝承、『千と千尋の神隠し』は鉢かづき等、宮崎監督は、ことあるごとに多神教の土壌から生まれたオールドストーリーを発想の根源にしている。これは、新しい物語を創る大きなヒントだ。

一神教的な物語は、もはや限界が来ているんじゃないかと思う。一神教的な物語とは、勧善懲悪型のストーリーで、善が悪をうち負かすヒーロー型ストーリーのことだ。グローバル化がすすみ、多文化共生が啓蒙されていく中、一方が善で、一方が悪というストーリーは、21世紀に生きる子供たちには、もはやそぐわないのではないかと思う。

新しい時代の子供たちが読む物語は、みなが神で、みなが悪魔で、自分の中の悪魔と戦い、あるいは人の中の神を招き寄せ、チームを作り、目の前に王国を創る、そのようなストーリーテンプレートが大切になってくるのではないか。

伊藤若冲のパクリです(笑)

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絵本づくり(04)絵本=エンタテインメント+思想哲学(その2)

僕がつくる絵本はまずはエンタテインメント。子供たちにとことん楽しんでもらうもの。しかしその奥には秘められたメッセージがある。哲学がある。その哲学とは何か。僕にとってはそれが東洋的叡智たる仏法だ。なかんずく日蓮仏法であり、その真髄は、

全ての者が「仏=自分の可能性を開き、自分にもともと備わっているものを使い、自分自身を蘇らせられる者」になれる、

である。こんなエンタテインメント絵本をどうやって創るか。

前回述べたように、僕のエンタメ絵本は、子供たちに伝えたい思想哲学(メッセージ)があるが、それを直接語りはしない。物語全体に散りばめるのである。さて、思想哲学はどのようにエンタテインメントたりえるか?ヒントは、ジブリの宮崎駿監督にある。彼のような鬼気迫る努力の天才には、爪の垢ほどにもなれるはずもないが、彼の物語創作法に学べるものはあるはずである。

だれもが周知のとおり、宮崎監督が創る物語は、どれもエンタテインメント性がとても高く、またたくさんのシンボリズム、深い思想性がある。彼の物語の源泉はというと、世界各地の古代の神話や伝説、特に日本の昔話や伝承によると言われている。これらオールドストーリーは、どれも一神教が世界に普及する前の、多神教的な土壌から出てきた物語で、教条的なものが少なく、人々の想像性を豊かにするものばかりだ。「多神教」いう言葉が出てきたが、とどのつまり、あらゆるところに神々がいる、という思想だ。これは仏法が想定する「全ての者に仏性がある」という哲学と親和性が高い。『千と千尋の神隠し』はまさにこの多神教、よろづの神々がくる湯屋を舞台にしていて、さまざまなものに生命を宿し、物語を紡いでいる、想像性豊かなエンタテインメントになっている。まとめると、

  • ①多神教的オールドストーリーを根拠とする
  • ②エンタテインメント性の高い物語で、
  • ③「全ての者に仏性がある」というメッセージを散りばめる

これが僕の「想像力が爆発する絵本」の条件となるだろう。

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絵本づくり(05)多文化共生とフェミニズム時代のストーリー

前回述べた「想像力が爆発する絵本」 の条件とは

  • ①多神教的オールドストーリーを根拠とする
  • ②エンタテインメント性の高い物語で、
  • ③「全ての者に仏性がある」というメッセージを散りばめる

この3つ。では、次にこの条件を取り入れて、物語を「大量生産するための型」が必要になる。まあ、いわばストーリー・テンプレートなるものだ。北米では、ハリウッド映画やTVショー、Netflixなど、ストーリーを消費できる媒体がたくさんあるのだが、そのストーリーを創るテンプレートとして有名なのが「ヒーローズ・ジャーニー」なるものだ。これはもともと神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルの理論から展開されたもので、彼の神話の型理論を研究して脚本を書き、世界的に有名になった映画がジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」だ。それ以来、「ヒーローズ・ジャーニー」は北米エンタメ界ではテッパンの如くもてはやされているが、僕個人的には、この北米のストーリー文化がなんとなく気に入らない。キャンベル自体の理論および考え方は大好きで、かれの『神話の力』という対談集を読むと、いつも触発されるのだが、北米エンタメ界のストーリーテンプレートは、僕の物語の考え方からするとどうなのかと思ってしまう。それは子供向けの北米映画を見たとき、如実に思う。その特徴は、

「勧善懲悪型のストーリー」

の一点だ。うちの息子が映画を見に行き、うちに帰って、見た映画のストーリーを祖父母に説明するとき、必ず「bad guys(悪いヤツら)」という代名詞で説明しているのを耳にする。子供向けなので、善悪くっきり分ける物語の方が分かりやすいのはそうなのだが、それにしても北米文化では善悪二元論が根深い。僕が育った「キン肉マン」や「ドラゴンボール」では、確かに悪役はいるが、戦ったあと、その悪役と主人公が友達になるケースが少なくない。つまり「悪」は「善」になる可能性をもっている。ところがここ北米では「悪」はどこまでいっても「悪」で、必ず「善」に攻め滅ぼされなければいけないことになっている。ここに差別や偏見の温床を見るのは僕だけだろうか。

また、善悪二元論ストーリーは、ヒーローズ・ジャーニーといわれるだけあって、男性的父権的なメッセージがたくさんつめこまれている。男女共同参画社会が謳われている現代社会にあって、ヒーローズだのと言って、「男らしく」「女らしく」ジェンダー(性差)を育てていくのはおかしな話で、フェミニストたちが訴えるが如く、ジェンダーフリーの文化を構築していく必要性がある。それじゃあヒロインズ・ジャーニーを作ればいいという意見があるが、これはヒーローズの焼き直しで、善が悪を滅ぼす構図は変わらず、多文化共生時代にそぐわない。多文化共生やフェミニズムが世界的な大きな潮流を起こしている現代で、善悪二分化なり、男性的父権的なメッセージは、21世紀を生きていく子供たちにはまったくふさわしくないというのが僕の考えである。これからのストーリーは、その登場人物は善悪混合でより生身の人間らしくあるべきだ。そして21世紀にふさわしいジェンダーフリー文化を再構築していくため、多文化共生やフェミニズムの土壌から産まれるストーリーテンプレートが必要とされるのではないか。

まとめると、21世紀に生きる子供たちに贈るストーリーのテンプレートは、

  • ①善悪二元化ではなく善悪混合のキャラクターである
  • ②ジェンダーフリー文化を再構築する
  • ③多文化共生を想起させる多神教的ストーリーである

こういったものが良いのではないか。

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絵本づくり(03)絵本=エンタテインメント+思想哲学(その1)

僕が作りたい絵本のコンセプトは、

「想像力が爆発する絵本」

だ。この意は2つあって、1つは、絵本を作る側の僕の想像力が爆発すること。もう1つは、僕の絵本に刺激されて、読む子どもたちの想像力が爆発すること。

絵本とは、まずは「エンタテイメント」だと僕は思う。人は産まれてしばらくすると、ずうっと物語を楽しむ生き物になるのではないか。子どもから青年少女、大人からご老人になるまで、人間ならみな物語を楽しむ生き物なのではないか。絵本から始まり、マンガ、小説、アニメ、音楽、映画、テレビドラマ、お笑い、新聞、ニュース、時事解説、雑誌、格闘技観戦、SNS、YouTubeなど、人はみな何かしらの媒体で何かしらの物語を日々消費して楽しんでいる。この僕たち人間の性質から考えると、僕たちが最初に触れる物語のひとつであろう絵本も「楽しむため」にあるはずだ。だとすれば、絵本の第一条件は「エンタテイメント」であるべきだ。

またもう一方で、絵本づくりにあたって、大切なのは、何を訴えたいか、何を伝えたいか、であろう。自分の子どもたちに、自分の読者に、どんなメッセージを受け取ってもらいたいのか。絵本作家はどんな思想哲学を語るのか。何を伝えるのか。

この二律背反のような2つの条件を科学反応させて、創造的に作る絵本こそ、僕が作りたい最たるものだ。ちょっと一見硬派な思想哲学を、エンタテインメントという衣に包んで揚げて、食べてもらいたい。僕がつくる絵本はまずはエンタテインメント。とことん楽しんでもらうもの。しかしその奥には秘められたメッセージがある。哲学がある。これをどうやって実現するべきか。ここはおおいに悩むところ。

自分の例で申し訳ないのだが、僕が以前息子の6歳の誕生日のために創った絵本を取り上げさせて頂きたい。息子が6歳になる前後、妻のお腹には女の子が宿っていたのだが、妻と僕が息子に妹ができると告げたとき、少し複雑な表情を浮かべていたことが気になった。6歳になる前だから、妹ができるといわれてもまだわからないということもあっただろうが、うがった読み方をすれば、今まで母と父を独占していたのに、邪魔者がはいるじゃないか、という嫉妬心もあったのではないかと思い、『ぼくにいもうとができる』という絵本を創った。この本のシンプルなメッセージは、息子よ、君に妹ができるから、お兄ちゃんとしてできること頑張ってね、というものだったが、絵本の中ではそうは語らず、絵本の中の息子が、妹のできることを想像して、ロボットのようなパワードスーツをゲットして、そのスーツを使って妹赤ちゃんを守る、という設定にした。この絵本が功をそうしたのか、6歳差があるからなのか、息子は妹思いの面倒見のよいお兄ちゃんに育ってくれている。

この『ぼくにいもうとができる』のように、いちばん伝えたいメッセージを直接書かずに、絵本の絵を6歳男子が好きそうなロボットものにし、エンタメ性を前面に押し出して、ストーリー全体にメッセージを染み込ませるようにしかけると、メッセージはよりいっそう息子に届くのではないか、というのが僕のねらいだった。まとめると、

  • ①思想哲学(メッセージ)は直接語らない
  • ②エンタメ性の高い物語全体がメッセージを語る
  • ③物語は言葉ではなく絵が語るようにしかける

これが僕が理想とする「想像力が爆発する絵本」だ。

『ぼくにいもうとができる』

ちなみにこもハンドフルマンは千手観音像からモチーフをもらった。

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絵本づくり(02)創造的なアイディア

「絵本づくりを生業にできないか?」

というアイディアは、僕の「創造的な生活」というコンセプトを満たしてくれるのではないか。そう思い始めて、次に考えたのは、絵本の物語をどのように紡ぎ出せば良いのかだった。どのように

「創造的なアイディア」

を汲みだせばよいのか、だった。

表現者なら、いつ如何なるところでも、創造的なアイディアが湧き出てほしいものである。その創造的なアイディアとは、どんなもので、どこから湧き出るのか。どのような思想哲学から湧き出てくるのか。こういったことを明らかにしていくことは、これから僕が絵本を作るにあたって、僕にとっても、僕の読者第1号である僕の息子、そして今、読者第2号になる娘にとっても、とても大事なことのように思う。故に、僕がどのようなところに立って、どのような考えでもって、どのような絵本を作り続けて行くのかを述べていみたい。

僕は自称・仏教徒だ。でも本当はそうではない。仏教徒というのは本来、仏法の実践ー座禅や瞑想、唱題ーをして初めてそう名乗れる。その意味では僕はエセ仏教徒なのだが、そう名乗るのは、カナダにいるときには、なんとなくすわりがいいからだ。なぜなら仏教徒はこちらではまだ一般的ではなく、かつ人々のオリエンタリズムを刺激するのかもしれない。よく物事に動ぜず、静かながらも自分を持っている人のことを「あの人はZenだ」みたいな表現を英語でする。これはおそらく鈴木大拙が西洋で広めた禅から来ているイメージだと思う。仏法はそれほど静かで平和的なイメージがカナダにはある。

しかし僕がもつ仏法のイメージは、もっとダイナミックで創造的で力強い。僕が信奉する日蓮という13世紀の辻説法僧は、

「自分自身の中にある仏に帰命しなさい」

という趣旨の題目「南無妙法蓮華経」を唱えよ、と説いた。そうするとどうなるか。マンガチックに説明すると、この題目を唱えれば、自分の心の扉が自動的に開き、その中の仏が顔を出し、どのような難問も解決できる智慧を絞り出してくれるのだ、という。日蓮は天台教学の最高峰である

「一念三千」

という法門を説く。これを現代風に意訳すると、

「自分が変われば、すべてが変わる」

となるかもしれない。日蓮は

「自分自身を信じろ」

という仏法を説いた。

「自分自身の中に仏がいるのだ」

と再三再四述べた。故に人間の外にいて救済してくれる阿弥陀如来や大日如来の他力本願的な仏教イメージを徹底して批判した。あなたは外から救われるのではない、あなた自身があなたを救うのだ。救済されるな、救済しろ、と。この仏法者のメッセージは、すべての人々に届く。歳をとり空虚な老人たち、行き詰まりを感じている大人たち、将来に夢を持てない若者たち、いじめに苦しむ学生たち、自分に自信が持てない子どもたち。すべての悩み苦しむものに届けられるメッセージ。この思想哲学を絵本にして読む人々の心に温かいともしびをともせないか。この日蓮が説く仏法を土台にして、新しい絵本が作れないか。彼のメッセージを僕なりに汲み取って、創造的なアイディアが湧き出てくるのではないか。絵本にこの哲学(メッセージ)をこめる。

「自分が変われば、すべてが変わる」と。

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絵本づくり(01)創造的な生活

世界は今、目に見えない敵と戦っている。

その戦い方はとても地味で、ここカナダでは、国は国家非常事態宣言をし、医療や食料以外の、生活上エッセンシャルでないビジネスは封鎖命令され、人々は外出制限もしくは禁止されつつある。家族はみな外に出られないストレスにさらされるが、僕といえば、ここぞとばかりに僕が温めてきたアイディアを実行しつつある。社会的隔離は、僕にとって絶好の機会だ。

どういうことかというと、僕は

「創造的な生活」

に憧れている。まあ、アーティスト気取りなのだ。アーティストが物事を創るには、孤独な空間が必要だ。外出禁止という世界的な狂気の時流の中で、僕はワガママながら、自分自身の創造性を発揮することしか考えていない。

まず、日常生活を送るに連れて忘れがちなのは、僕たちにとって「大切なことはなんだったのか」ということだろう。

毎日のルーチン、僕だったら、朝ご飯の用意をし、息子の弁当をつくり、息子を学校に連れていき、娘の世話をし、娘に絵本を読んでから昼寝させ、週末の日本語学校の教案を作り、息子を学校に迎えにいき、晩ご飯を作って食べさせ、子供達を妻とともに寝かしつけ、電子書籍を読む。

このような日常のルーチンに埋没していくと

「僕の本当の使命はなんだったのか」
「僕のライフワークは何だったのか」

をつい忘れてしまいがちになる。そのような時に、僕は自分自身に問いかけなければならない。

「僕が本当にしたい事は何だったのか」と。

僕が本当にしたいことは、いつも

「創造的な生活」

をすごしていることだ。
僕なりに「創造的な生活」の定義があって、

創造的なアイディアをもとに、
創造的な生産活動をし、
創造的な作品を作る。

である。何かしら表現したいのだ。

「創造的」というキーワードは僕の日常にとって強烈なアンチテーゼだ。
なぜなら僕は日常に埋没して創造性を発揮してないからだ。

自分が創造的になれる瞬間はある。そりゃ、誰でも創造的な源泉は持っているはずだ。でもその源泉を掘り起こし、手入れし、メンテナンスしなければ、泉は朽ち果てしまう。

冒頭の日常生活のルーチン云々はこのことである。創造的になる為には日々生産活動をしなければならない。
あのパブロ・ピカソは、80年間にわたる芸術活動の中で、なんと147,800点もの作品を作ったという。単純計算すると、年1,800点、1日平均5点もの作品を作り続けたことになる。驚異的な数字だ。現代アートの天才も、日々生産活動をし、自らの源泉を刺激し続ける根気を持って初めて創造的になり得たのだと思う。

僕にも創造的な瞬間はかつてやってきた。息子ができた時だ。絵本を読んであげると、表現は悪いが、子犬のように喜んでくれる息子を見るにつれて、僕も息子に何か残してあげたいという表現欲のようなものが強くなった。この世に生を受けた息子には、すくすく育ってほしいとともに、創造的な考えを持ってほしい。

息子は日本に生まれて今、カナダで生活している。フェミニンで強い、カナダ人らしい価値観を持つ聡明な母と、我の強い、えせ合理主義者の封建的な父親の僕にしごかれる、ユニークな環境に身を置く息子。

カナダに住んでいる以上、カナダ的価値観は容易に学べるが、日本的文化を楽しく学べる場が少ない。それで息子に「絵本」を作り始めた訳だが、この絵本づくりが思いのほか面白く、そして難しい。なんせ絵本の世界は奥深い。とにかく、自作の絵本で、カナダにいながら、息子に日本的価値観なり、美意識なりを伝えていけるのではないか、というのが僕の絵本作りの原点だった。そして僕の「創造的な生活」というコンセプトも満たしてくれる。そして少しずつ考え始めた。

「絵本づくりが生業にできないか?」と。

〈つづく〉


創造的になれるボタンがあるならいいですね。

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絵本づくり⑴はっけよい、のこった

実は自分の息子のために、今まで何冊か絵本を作ったことがあります。

子に絵本を読み聞かせるということが、
なんと貴重な体験で微笑ましいことなのか、

実感し続けていたころ、妻と息子と本屋に行って、

よく絵本を立ち読みしていたことがありました。

次、どんな絵本を読ませようか、

いろいろ物色していた中、見つけたのが、

林明子作『こんとあき』。

ほのぼのとした中に暖かさのある絵本で、

本屋で思わず泣いてしまった思い出のある絵本です。

子ができ、親になり、息子のオムツを替えたり、

抱きしめてあげるようになると、どうも涙腺が弱くなるのでしょうか。

また、絵本を読んであげると、

顔をしわくちゃにして喜んでくれる息子を見ていると、

絵本体験というものが、とても愛しくなってくるものです。

そうなると、

いっそのこと自分で思い描いたものを絵本にして作ってしまえ、

ということになり、息子のために絵本を作り始めることになったでした。

絵本を作るといっても、

なにをどう始めてよいのやら、わからなかったので、

とりあえず絵本づくりの教科書が必要だと思い、購入したのが、

長谷川集平著『絵本づくりトレーニング』でした。

実に実践的で、体系的に絵本づくりの理論がよくまとめ上げられた本で、

特に「絵本のページをめくる効果」について力説している本でした。

そこでページをめくるごとに、登場人物の動きが感じられるものにしたいと思い、

さっそく作ってみたのが『はっけよい、のこった!』でした。

これはiPadのクレヨンアプリを使って、iPad上に指で描いたものです。

言葉は擬音だけにして、2人の力士が相撲を取る。

そしてページをめくるたびに力士たちが動き、話が展開していくというやり方をとりました。

しかし、いかんせんページ数が多すぎました。

絵のページと擬音のページを分けてしまったので、

いたずらに冗長的になってしまい、荒削りで洗練されていませんでしたが、

言葉を最少限度にして、絵だけで話を伝え、めくる効果によって絵が動く、

という目的は達成できたのでは、と思います。

2013年の冬のクリスマスプレゼントとして息子に贈りましたが、

とっても喜んでくれました。

絵本づくりは、意外に難しいことだとよく分かりましたが、

また同時にとても楽しいことだと思いました。

そしてこれが病みつきになり、2作目を作り始めたのです。

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絵本のチカラ


僕の妻はカナダ人で、結婚したときは一緒に日本に住んでいました。

妻は日本で妊娠して出産し、生まれた息子は2歳になるまで日本で住んでいました。

ところが、当時、僕はフルタイムで働き、妻が息子の面倒を見ていたので、

英語話者である妻に育てられた息子の母語は、必然的に英語でした。

僕は、息子には当然日本語で接したし、隣近所は当たり前に日本語環境ではありました。

そんな息子が妻とカナダに移住したのは、彼が二歳になる一週間前。

その後、一年半ののちに僕がカナダへ。

しかしこの一年半は実に大きかったのです。

僕が日本語で話しかけても、息子は英語で返す。

理解できるみたいだが、話しはしない。これは正直あせりました。

息子の日本語が失われてはもったいないと思い、僕がとった手段は、

日本語の絵本を読むことでした。

毎晩毎晩、寝る前に二~三冊は読みました。

多いときには五冊以上も。

日本から買って持ってきた実際の絵本はもちろんのこと、

ネットから拾ってきた絵本をiPadでも読ませた。

『じゃあじゃあビリビリ』
『みんなでね』
『うんち』

などの赤ちゃん絵本から入り、

『じごくのそうべえ』
『こんとあき』
『かいじゅうたちのいるところ』

などの物語モノも多く読むと、喜ぶようになり、今では、

『じゅげむ』
『めぐろのさんま』
『おにのめん』

などの落語絵本も好んで読んでと、せがむようになってくれました。

この記事を書いている頃は、息子は8歳で、精神年齢がぐっと高くなったので、

絵本を卒業して、漫画の読み聞かせをしています。

僕が好きな手塚治虫の『火の鳥』や『三つ目がとおる』『どろろ』『ブッダ』などですね。

まだ1人で読むには漢字や語彙の問題があるので、読み聞かせしているのですが、

テーマ性の高いものを選んで読んでいます。

これは息子に日本語を継承していってほしいという想いと、

さらに日本文化的なもの、

東洋的な価値観(例えば、生まれ変わり、生命の永遠という考え方など)を

継承してもらいたいという想いから、手塚治虫さんの漫画を読んでいます。

これについては、また別の記事で書きたいと思います。

絵本の話にもどります。

「絵本のチカラ」とは、本当にスゴいもので、

まず言葉に関係なく、絵がストーリーを語るみたいで、

子どもが物語の世界へグイグイと引き込まれるみたいです。

そんな心理状態の中、

親が言葉の音を、子どもの心に放り込んでいくように語る。

絵と言葉の音が物語る環境が、

いともカンタンに子どもの心に新言語能力を作り出すかのようです。

今年8歳になる僕の息子は、

今ではこちらが英語で話しかけても、

日本語で返してくる。

子供の心の言語空間がアイデンティティをも形成するようで、

日本にいた記憶もないはずなのに、

日本文化に親しみがあることを、息子はとても誇りに思っています。

子どもの脳が当然素晴らしいのですが、

それをガッチリとサポートしてくれる「絵本のチカラ」というものに

今更ながら驚いている今日この頃です。

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家プロジェクト「南寺」を想う

8月6日に日本からカナダに帰国して5日目の深夜にこれを書いている。

自分自身の時差ボケも解けないのだが、それ以上にもうすぐ2歳になる娘の時差ボケがひどいのだ。カナダと日本では昼夜が真逆であり、目がギンギンギラギラして眠れない夜と、疲れ果てて眠たくてしょうがない昼が続く。大人でも克服するのに大変なこの時差ボケ、2歳未満児なら未体験ゾーンで、そら大変でしょう。夜はしっかり寝て、昼はしっかり活動する、そんな当たり前のことができないもどかしさに、泣く事しかできないわが子が可哀想になってくるものの、「早よっ寝れっ!」と大人気なく思ってしまう。

街灯の明かりがかすかに差し込む暗がりの夜の部屋で、時差ボケの娘をあやしていると、ふと、直島の家プロジェクト「南寺(みなみでら)の鮮烈なアート体験を思い出してしまった。

直島は、いまや現代アートの聖地として、日本国内よりも世界に名高い島である。その島の東側の本村地区に「家プロジェクト」という、空き家を改修し、その中に現代アートを常設展示するものが目玉となっている。直島をアートの島に仕立てたベネッセという会社で、プロジェクト立ち上げに参加した秋元雄史さんの著書によれば、

「家プロジェクト」は、古民家の改修、アート化が直島の歴史を掘り起こす役割を担う(直島誕生2018)

という厳密な定義がある。この定義にそって、家プロジェクトの一軒目「角屋」がオープンしたが、二軒目のこの「南寺」は「古民家の改修」には沿っていない。逆に古家を取り壊して、その更地に安藤忠雄が設計した全くの新築物件が設けられた。しかし島の歴史を掘り起こすと、この地はもともと地蔵寺という寺があり、島民には「みなみでら」という通り名で親しまれていたという。そういう土地の記憶はしっかりと踏襲されている。では、なぜ新築したかといえば、ジェームズ・タレルの「Backside of the moon」というアートを収納するためだ。このアートの特性をタレル自身はこう説明している。

「真っ暗闇な建物内で 、目が慣れてくるにつれて少しずつ正面の壁にスクリ ーンのような空間が見えてくるこの作品」(直島誕生2018)

僕自身、今回の家族みんなでの日本滞在中、直島のこの南寺を体験してきた。整理券を事前にもらい、予定の時間に限られた人数だけ入館できる。説明員の方の指導に従い、手で壁を触りながら入る。なぜなら中は自分の手足も見えないほど本当に真っ暗闇だからだ。壁伝いに中を探って着席し、真っ暗闇をひたすら直視する。3分、5分たつと、突如として光のスクリーンが飛び込んでくる。いったん光を感じると、あたり一帯は明るく感じ、もう暗闇は存在しなくなる。。。そんなアート体験である!

説明員の方の話によると、入館した最初から、光は差し込んでいたそうである。それは明るい場所から入ってきた目には見えないほどの光量だそうだ。館内では音が出るもの、光を発するもの、スマートフォン、スマートウォッチのたぐいは、一切電源をオフにしなければならない。そうやって人為的に真っ暗闇の世界を作り守りながら、真っ暗闇を直視し、がまん強く何かを待ち続ける。そうしてついに見えてきた光のスクリーンは、なんとも言えない感動のアート体験である。先述の秋元雄史氏は、ジェームズ・タレルのことをこう評する。

タレルは光の作家であり、それを科学的に探求する作品を多く制作しているが、その背景には宗教的な光の象徴性が垣間見える。それもそのはず、タレルは本人も含めて家族がクエーカー教徒なのだ。クエーカー教徒は偶像を持たない。内なる光によって信仰を深める。その思想はタレルの制作にも影響を与えている(直島誕生2018)

観客に光の体験をさせるタレルの作品は、圧倒的な暗闇があってはじめて成立する。またその光は観客が入館してからすでに発光していたのだ。この「暗闇の中にもともと光が存在していて、その暗闇を直視しつづけると光に気がつく体験」は、俗世間の中に出世間(聖なるもの、宗教的なるもの)が存在するメタファーだ、と強く共感してしまった。そしてこのメタファーは、仏法の、なかんずく法華経の蓮の華の譬えを即座に思わせる。

仏法の世界では、「蓮の華」はとても重要な象徴性をもつ。法華経の正式名称は「妙法蓮華経」といい、まさに蓮の華の存在自体が仏の教えの中核であるとの題目である。この法華経の第15章に、地涌の菩薩(地から湧き出てくる沢山の仏弟子)は、

不染世間法 如蓮華在水
(世間の法に染まらざること  
 蓮華の水に在るが如し)

であるとの文句がある。意味は、仏法を実践するもの、総じて我々人間の命には、世間や社会のネガティブな暗闇の部分に染まらず負けずに、自分の可能性や創造性を発揮できることがある。それはまるで蓮の華が泥水の中に咲く姿と全く同じである、と解釈できると思う。世間の闇、そして自分の心にも闇はしっかりと存在する。それに負ける日々もあれば、それに打ち勝つ日もある。大事なのは、自分の中に心の闇もあれば、蓮の華のように泥水から花を咲かせる、その種もすでにある、とのメッセージであろう。

僕が南寺のジェームズ・タレルのアート体験をして、真っ先にこの法華経の蓮華の句を思い出したのだ。光は必ずある、この暗闇に!
法華経の教説が面白いのは、ネガティヴなものをネガティヴなものだといったん断じながらも、それを捨てずにポジティブなものを手に入れる方便として使い切るところだ。それはシンプルに考えればわかる。光は暗闇がなければ存在しない。夜があってはじめて昼がある。男がいて女がいる。CO2を吐く人間がいてO2を吐く草木がある。自然界ではあらゆるものが相即性をもつ。つまり相反しているものは補完しあっている。ジェームズ・タレルの「backside of the moon」も同じだ。地球側からすれば、月夜の見える反対側は真っ昼間で、月影がかすかに見える日中の逆側は真夜中である。月の両サイドには昼と夜が相即している。闇と光とが共にいるのである。
タレルのこの作品のように、真っ暗闇の体験、そしてその中で光に気づく体験は、驚きの体験であると同時に当たり前の体験である。しかし、当たり前に物事を享受してしまっている現代人の我々には、この当たり前の体験に驚愕する。僕の2歳未満の娘が時差ボケに困惑して泣き叫んでしまうように。

この自然界のすべての出来事は、相対的か、相即的なのかもしれず、絶対的なものはありえないのかもしれない。あえていうなら、この相対的で相即的であることが絶対(仏法用語で「絶待」)なのかもしれない。

時差に泣く
夏夜の室に
まちあかり


(写真は南寺の敷地にある名もなき御堂と息子娘たち。過去と現在と未来が混在しているかのような錯覚を感じた。)

参照:『直島誕生』秋元雄史著

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勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ⑤鬼が笑う

前回は「受け容れる」ことで「智慧」を発揮する

「絵姿女房」の話をしました。
前回を参照➡︎勧善懲悪型ではない、古くて新しい物語を探せ④絵姿女房

今回は「悪との対峙の仕方」「智慧」について

話したいと思います。

日本の昔話には、しばしば「鬼」が現れます。

この「鬼」を英訳にすれば、

「demon」「evil」「 devil」「 ogre」などでしょうか。

いずれも「悪魔、人喰い鬼」みたいな語感でしょう。

これらの概念は、キリスト教世界では、神に対峙する絶対悪の存在です。

絶対悪である悪魔は、神によって滅ぼされる存在です。

神は、悪と没交渉です。交渉しないのです。

ところが日本の昔話に出てくる「鬼」は、

かならずしも絶対悪の存在ではないのです。

「鬼」はしばしば人間社会にやってきて、

村を荒らし、町人をさらったりして、

人々に恐怖のどん底を味あわせたりします。

と思えば一方で、

「おにのパンツ」と子供に親しまれる存在だったりします。

キリスト教世界では、ありえない待遇でしょう。

ここに「鬼が笑う」という昔話があります。

登場人物は、娘と老いた母、尼、そして恐ろしい鬼です。

この話には、なぜか男たちが一切出てきません。

さあ、女たちだけで、鬼とどのように渡り合っていくのでしょうか。

あるところに娘と年老いた母が住んでいました。

ある日、鬼たちが村を荒らしに来て、

この娘をさらっていきました。

年老いた母は、ほとほと困り果てたところに、

尼さんがあらわれて、知恵を授けてくれます。

「鬼ヶ島にいって、鬼どもに酒を振る舞え。

鬼どもが酔った隙に、娘を連れて島を離れるのじゃ」

さっそく母と尼は、たくさんの酒樽を船にのせて、

川向こうの鬼ヶ島に渡りました。

尼が船に残り、母は単身、鬼のいるところへ。

島で鬼たちに酒を振る舞い、

予定通り鬼たちが酔いつぶれた隙に、

娘を探し出し、娘とともに、尼が待つ船に乗り込みます。

そのとき、鬼たちが酔いから目覚め、娘がいないことをさとり、

老婆の策略だったことに気づき、大激怒する鬼たち。

すぐに島から出ていってしまった船を見つけ出し、

川岸に降りてきた。

そこで鬼たちが口を開けるといっせいに、

川の水をゴクゴクと飲みだした。

すると、島から離れたはずの女たちが乗った船が、

みるみる島の方へ引き戻されるではありませんか!

娘と母はなすすべもなく、狼狽しているところへ尼が、

「何をしておる!今すぐ女の大事なところを

鬼どもに見せびらかすのじゃ!」

と、女3人、船の上に立ち、着物の裾をまくりあげ、

女の大事なところを鬼たちに見せました。

それを見た鬼たちは、大笑いし、笑い転げて、

それ以上、水を吸うこともできず、

女たちの船は無事、

鬼ヶ島から逃げうせることができましたとさ。

この話では、悪行の限りを尽くした鬼たちが

全く成敗されません。

むしろ、鬼たちは鬼ヶ島に存在し続けているし、

娘と年老いた母は村に戻り、すべてが元通りです。

これが男たちだったら、鬼を殺す算段をするでしょう。

ところがこの女たちは、「笑い」という智慧を発揮し、

窮地を逃れるのみならず、争いすら回避しているのです。

力と力は、いずれ争いをもたらしますが、

力に対する「笑い」は、脱力を生みます。

鬼 vs 男 ( 暴力 vs 暴力 )=争い
鬼 vs 女 ( 暴力 vs 笑い )=脱力

「鬼が笑う(鬼を笑わせる)」ことで、

鬼が村を荒らしたり、娘をさらったりしたことを

「無かったことにしている」のです。

現代ドラマにおいても、復讐劇が多いなか、

この「鬼が笑う」に発揮される

「無かったことにする」智慧は、

目を見張るものがあるのではないでしょうか。


(つづく)

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