「勧善懲悪型ストーリー」
は、キリスト教的なメッセージからできたエンタテインメントだと思う。なぜなら善と悪を二分するところが根源だからである。この根源から出た物語を西洋的エンタテインメントだとしたら、その反対には東洋的なエンタテインメントがある。その根源の違いは何かと言えば、一神教か多神教か、だと思う。
神は一つであり、一人であるという考え方と、神はたくさんいる、あまたいるという考え方に、どんな違いを僕たちの生活にもたらすかといえば、
生きる希望を僕たちの外におくか、内に置くか
であろうか。「神」という概念を「この世で一番尊いもの」と訳せば、一神教では「この世で一番尊い」絶対者は神一人であり、多神教ではすべてのものに等しくある生命ということになる。
批判を恐れずに要約すれば、一神教では、生きる希望は神一者のみに委ねられ、多神教では、すべての生きとし生ける者が希望の体現者になれるのである。
また、多神教から生まれる物語は、一神教の物語にない、今のわれわれにとって新鮮な物語をもたらすだろう。
前回、ジブリの宮崎駿監督が創ってきた物語は、そのアイディアの源泉を日本の昔話や民話から得たことを書いたが、例えば、『ナウシカ』は堤中納言物語収録の「虫愛づる姫君」、『トトロ』は笠地蔵、『もののけ姫』は製鉄民の伝承、『千と千尋の神隠し』は鉢かづき等、宮崎監督は、ことあるごとに多神教の土壌から生まれたオールドストーリーを発想の根源にしている。これは、新しい物語を創る大きなヒントだ。
一神教的な物語は、もはや限界が来ているんじゃないかと思う。一神教的な物語とは、勧善懲悪型のストーリーで、善が悪をうち負かすヒーロー型ストーリーのことだ。グローバル化がすすみ、多文化共生が啓蒙されていく中、一方が善で、一方が悪というストーリーは、21世紀に生きる子供たちには、もはやそぐわないのではないかと思う。
新しい時代の子供たちが読む物語は、みなが神で、みなが悪魔で、自分の中の悪魔と戦い、あるいは人の中の神を招き寄せ、チームを作り、目の前に王国を創る、そのようなストーリーテンプレートが大切になってくるのではないか。